『お昼の月』

あと一時間で夜も明けるというのに、月はまだ、夜一時の顔をしていました。

目はらんらん、頭はさんさん、あまりの光の鋭さに、梟も、今夜はもう六回も首を回しています。

今日午前十時、お昼の月がやってきます。 

いつもなら、黄色い朝日の下で働いている人たちも、青空を自由に飛びまわる鳥たちも、やわらかな緑の草を食む牛も馬も羊も、 あと五時間後には、皆一斉にその空を見上げるのです。 

月はその時の事を考えると、緊張と不安とときめきとで体の中がドコドコと熱くなり、目をギンギンさせながら、ますます激しく光りだすのでした。


「…大丈夫?」


 突然小さな夜雲が、空気を吸ったり吐いたりしながら月に話しかけてきました。 


「─えっ!?何がです?」 


月は、耳の裏から出たような声で夜雲に答えました。


「‥月はあんた一人しかいないんだから」


夜雲は一言そう云うと、また空気を吸ったり吐いたりしながら、ゆっくり月の前を通り過ぎてゆきました。 

月は去ってゆく夜雲の背中にむかって、精一杯笑って軽くウインクをしました。 

しかしその顔は、目も鼻も口も右に左にひきつっていて、何とも不気味な顔でした。  

月は暫らくの間、目をパチパチ、パチパチとさせながら、東の空に浮かびはじめた赤い夏日星を見つめていました。 

空は薄紫と桃色とオレンジ色に染まり、色と色との間を鼠色も雲が、幾すじも幾すじも波を打っていました。

そのとき、月のおでこに黄金色の光が、パチンと眩しく当たりました。 

月はびっくりして、小さく青く萎みました。 

太陽でした。

朝がきたのです。  

太陽は、たくさんの小鳥たちに囲まれながらいつもと同じ顔つきで、まるで金の王様のように、ゆうゆう高く、プリズム色の空に登ってゆきます。

月は、太陽の暖かな暖かな光にまあるく包まれながら、  


「今日はあなたではなく、わたしなのです」  


そう言って、薄蒼い西の空にゆっくり溶けてゆきました。 


それから三時間後、昨日星めぐりで選ばれた星たちが、次々と月のまわりに集まってきました。 


「お早ぅ」

「お早ぅ」 

「お早ぅ」 

「頑張ろうね」 

「頑張ろうね」

「頑張ろうね」 


星たちは口々にそう云い合うと、さっそくお昼の月のダンスの練習を始めました。

月は、袖雲の後ろで顔を真っ赤にしながら、一人黙々、お昼の月の練習をしていました。  

太陽は、東南東四十五度の位置で、いつもと変わらず頬を盛り上げ、巨大な橙色のひまわりのように笑っていました。 


いよいよお昼の月、五分前になりました。

地上では、お昼の月を一目見ようと、人も犬も猫も馬も鼠も鳥も虫たちも、みんなぞくぞくと集まって来ています。

そんな中、月は、もうこれ以上膨らむことが出来ない程まんまるぱんぱんになって、じっと出番を待っていました。 

太陽は、相変わらず顔を盛り上げて巨大な橙色のひまわりのようにニコニコと笑っていました。 

お昼の月、一分前になりました。  

今までわぁわぁ忙しなく走り回っていた星たちも、突然ぴたりと静かになり、赤に緑に黄色に青に、パチパチと交互に瞬きしながら、 順々に月の後ろに並びました。  

月は覚悟を決め、キリリとした目付きで、東南東六十度にいる太陽をまっすぐ見ました。

 その時、 


 「お月さま、頑張ってね」 


月のすぐ後ろで、小さな声が聞こえました。  

驚いて月が振り向くとそこには、コバルト色の瞳をした桃色の星の子が、うるうると月を見つめて並んでいました。 

月はもう鼻の穴がぷぅと大きく膨らみ、胸がいっぱいになりました。

月は星の子を見つめ、後頭部をピンク色に染めながら、小さく固くうなづきました。 

そしてもう一度しっかり太陽を見すえると、一気に太陽に向かって飛び出しました。


午前十時、お昼の月が始まりました。 

突然月は、悠然とした横顔で、太陽の左の頬からゆっくり姿を現しました。  

その横顔は、今までの月とは思えないほど誇りと自信に溢れており、ゆっくりと振り向いた月の顔は、 それはもう誰もがうっとりとしてしまうほど若々しく、まるで銀色の貴公子のようでした。  

月は両手を広げ、地上にゆったり優しく微笑みかけました。

そして、上を見てはニヒルに笑い、下を見ては目を閉じ悩ましく、斜めを見ては遠い目でやや寂しげに、 月が一年掛けて作り上げた三百六十五種類の顔を、お昼の月、約一時間もの間、精一杯地上に向けて振りまきました。 

 

「‥あぁ、わたしは見られている‥とうとうわたしはやったのだ‥」


月は急に目の奥がキューンと熱くなりました。

お昼の月は完璧でした。 本当に、月からみれば完璧でした。 

しかし、地上から見た月の姿は── ただの真っ黒い月でした。

余りに太陽の光が強すぎて、月の姿は真っ黒になり、地上からは月の顔など、何一つわかりませんでした。 

月は何も知らず、残りの顔を一つ一つ噛み締めながら、最後までしっかりと演じ続けました。

そして最後の一つを太陽の右の頬で演じ終わると、左手をまっすぐ横に伸ばし、誇り高き笑顔で、青い青い空の中にゆっくりと消えてゆきました。 

 

「お疲れー」 

「お疲れー」

「お疲れー」  


しばらくして、ダンスを終えた星たちが、次々と元気よく月の前を通り過ぎてゆきました。 


「お疲れ‥」  


月は一言そう云うと、東南東八十度の太陽をぼんやり見つめながら、まるで空っぽの白いおもちゃのように、 いつまでもいつまでも一人青い空にぷかぷかと浮かんでいました。 


それから七時間後、昼間の太陽は西の空へ沈み、黄昏色の風が止むと、群青色の東の空に竜胆のような星が現われました。  

月は、ぼんやり空に浮かびながら何もかもうわの空で、螢のように青白く、やっとやっと灯っていました。 


(昼間は本当によかった…) 


月はうらうらうたた寝しながら、何度も何度もお昼の月の夢を見ていました。  


(今度はどんな顔をしようか…)  


月はゆらゆら揺れながら、卵色の夢の中で、またいつか訪れるお昼の月の事を考えているのでした。

小さな夜雲が、空気を吸ったり吐いたりしながら、黙って月の前を通り過ぎてゆきました。

星も夜風も虫たちも、当分の間、気が抜けていそうな月を見守りながら、暫らくは仕方がないかと、月にあわせてそっと明かりをおとしました。 

やさしい夜が続きそうです。

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