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記事一覧(188)

『銀のひとつ星』

とても寒いある雪の日のことです。一人の少年が、傷ついた一匹の子鹿を抱え山道を下っていました。子鹿は、大事そうに毛布にくるまれていましたが、その中では、もうかなりぐったりとしていました。空は、恐ろしいほど重たい灰色をしていました。ぼろぼろと大きくちぎれた雪たちは、まるでオオカミのようにウーウーと唸りながら、辺り一面に、冷たく降り積もってゆきます。それでも少年は、頬を真っ赤にしながら、黙々と歩いてゆきました。しばらくすると、少し小高い丘の上にバス停があるのを見つけました。(バスに乗せてもらおう)少年は、バス停に向かいました。バス停に近づき、少年は足を止めました。そこには、一匹の白いうさぎが立っていました。どのくらいいたのでしょう。耳と耳との間には、真っ白い雪がどっしりまあるく積もっています。少年は、しばらくうさぎを見ていましたが、ゆっくりと、うさぎの後に並びました。うさぎは何も言わず、ただじっと前を見つめていました。いつの間にか雪は静かに降っていました。少年は、子鹿の様子が気になり、そっと毛布をめくってみました。子鹿はかすかに震えながら目を開き、少年をじっと見つめました。突然、雪けむりが音もなく舞い上がりました。舞い上がった粉雪があまりにキラキラと眩しすぎて、少年は思わず子鹿を抱きしめ目を伏せました。舞い上がった粉雪のキラキラが、ゆっくりと静かに沈んでゆくのと同時に、薄夢色の小さなバスが姿を現しました。前の扉が開くと、今までじっと前を見たまま動かなかった白いうさぎが、ぴょこんとバスに乗り込みました。少年は、少し頭を傾げましたが、続いてバスに乗り込みました。バスの中に入ると、キツネ、タヌキ、リス、灰色のウサギ、黒ネコが、外を見ながら座っていました。しかし、何故だかみんな深い煤緑色の目をしているのでした。少しして、「コトン」という音がしました。少年が振り向くと、ゆっくり座席の方に歩いてゆく白いうさぎが見えました。少年は音のした方に近づき、少し驚きました。そこには、氷でできた小さな透明の箱がありました。そしてその中には、うさぎが入れた雪球が一つ入っていました。箱の向こうにも、同じように氷でできた大きな壁がありました。その中から、何やらシャリシャリという音がしていました。突然、シャリシャリという音が止み、氷の壁に映った黒くて大きな影が、ゆっくりとこちらを見たような気がしました。少年は、あわててポケットに入っていた雪で雪玉を作り、透明の箱に入れると、「麓の病院で降ろしてください」そう言って、座席の方に歩いてゆきました。歩きながら少年は、横目でチラリと氷の壁を見ました。そのとき、氷の壁のすき間から、片方の大きな黒いガラス玉のような目が見えました。その大きな黒いガラス玉のような目には、赤や、青や、黄や、緑の丸いつぶつぶがあり、少年が通り過ぎると、虹色に妖しく輝きました。少年は、ハッとして急いで目を逸らし、何故か深い煤緑色の眼をした動物たちの間をドキドキしながら通りぬけ、一番後の真ん中の座席に座りました。前の扉が閉まると、バスは一回ぶるるんと震えて大きく深呼吸をしました。窓の外には真っ白な雪けむりが上がり、キラキラ、キラキラと輝き始めました。無数のキラキラが一つの大きな光に変わったとき、バスはふわりと動き出しました。少年は、後を振り返りました。バスの後には、銀色に輝く光の渦がどこまでも続いていました。少年は前を向き直し、時間が経つ毎に弱弱しくなっていく子鹿を抱きしめ、そっと目を閉じました。音もなくバスは静かに走ってゆきました。どのくらい走ったのでしょう。暫らくすると、バスは少しづつ速度を落としはじめました。窓から見えた銀色に輝く光の渦は、無数のキラキラに変わりながら、滑るようにして走るバスの横を、さらさらと流れてゆきました。やがてバスが静かに止まると、見たことのない景色が雪けむりと共に広がりました。少年が窓を開けると、そこには、星のない夏の夜空のような空と、キラキラと宝石のように輝く真っ白い雪だけが、どこまでもどこまでも続いていました。突然、動物たちがゆっくり立ち上がりはじめました。すると、バスの扉が静かに開き、雪玉を入れた小さな氷の箱の中に、ピンクや、みずいろや、オレンジ色のこんぺい糖が、きれいな音をたてながら出てきました。動物たちは、小さな氷の箱に近づいて、自分の好きな色のこんぺい糖を一つづつ取りました。そしてそれを大事そうに口に入れると、次々に元気よくバスの外に飛び出しました。真っ白な雪の上をゆっくりととび跳ねながら、音もなく消えてゆく動物たちの姿を、少年は、ただ茫然と見ていました。その時、今まで少年の胸に抱かれていた子鹿が、突然ぴょんととび出しました。少年は思わず、立ち上がりました。子鹿は大きく、ぴょん、ぴょん、ぴょんと三度跳ね、氷の箱のそばまで行くと振り返り、真っ黒い瞳でじっと少年を見つめました。「待って‥」少年は、あわてて子鹿に駆け寄りました。子鹿は、最後に残った緑色のこんぺい糖を口に入れると、元気よくバスの外に飛び出しました。「待って!」気が付くと少年は、一人小高い丘の上に立っていました。いつの間にか雪は止み、静かな夜がおとずれていました。少年は、空を見上げました。空には、満天の星が輝いていました。

『桜の花の散る頃』

少女は今日も病院のベンチに座っていました。ベンチの横には、大きな桜の木が一本立っていました。桜の木は、今年もいい香りをさせながら満開に花を咲かせています。 しかし少女には、桃色の花びらも、桜の花のいい香りも、今は何も感じられませんでした。少女の頭の中は、昨日から入院したお母さんのことでいっぱいでした。 (お母さんは元気になるんだろうか。元気になって家に帰ってきてくれるのだろうか。またおいしいシチューを作ってくれるだろうか。

本当にまた、私を抱きしめてくれるだろうか‥)そんな思いが少女の小さな心を痛めながら、ぐるぐる、ぐるぐると回るのでした。 「遅いね」 突然、声がしました。振り向くと少女の隣りに、一人の少年が座っていました。少年は、驚くほど色が白く、瞳の奥は、何もかも消してしまいそうなほど深い緑色をしており、薄茶色の髪は、春の風にさらさらとゆれていました。 「お父さんを待っているんでしょ」もう一度少年は言いました。 「‥どうして知っているの?」 「昨日もそうだったから」  少年は少し微笑みました。 「あの窓から君が見えた」少女は、少年の見ている方を見ました。そこには、カーテンがきっちりと閉められ、固く閉ざされた窓がありました。  「僕、入院してるんだ」 少年はすずしげに言いました。 「お父さん、来たよ」 少年に言われ振り向くと、少し遠くに、手を振って立っているお父さんの姿が見えました。少女はベンチから飛び降りて、お父さんの方に駆けてゆきました。少女はお父さんと手をつなぎ歩きながら、窺うように、そっと後を見ました。少年は、ベンチにポツンと座り微笑みながら、いつまでも少女を見ていました。
 次の日、少女が一人ベンチに座ってお父さんを待っていると、昨日の少年がまた少女の側にやってきました。 少女は何を話していいのか分からず、しばらくの間、下を向いていましたが、思い切って少年に話しかけてみました。 「‥いつから入院しているの?」 「2年くらい前からかな」  少女は少し驚きました。 「‥どこが悪いの?」 「ここがちょっとね」  少年は、左の胸に手を当てました。 「ここが僕の体と、すぐにうまくつながらなくなるんだ」 少年は、やさしく微笑みました。少女は何を言っていいのか分からなくなり、また下を向いてしまいました。「‥でも、もうすぐここから出られるんだ」  少女は少年の顔を見ました。 「この桜の花が散りはじめるころ‥」  少年の瞳の奥がより深い緑色になり、春色の風が少年の髪をやさしく通りぬけてゆきました。次の日も、その次の日も、少年は少女のところにやってきました。少女は、少しずつお母さんのことを話し始めました。 少年は、いつでも少女の話を、静かに聞いていました。
 6日目の夕方、いつものように少女がベンチに来てみると、少女より先に少年が一人ベンチに座っていました。 「やぁ」「‥こんにちわ」 少し不思議に思いながら、少女は少年の隣りに座りました。 「今日は君に話したいことがあるんだ」 少年は、いつもより少し橙色の顔をしていました。 「瞼の向こうに宙があるのを知ってる?」  少女はきょとんとして少年を見ました。 「目を閉じると、そこには僕の宙があるんだ」 少女はしばらくの間少年を見ていましたが、少年の真似をして、そっと目を閉じてみました。しかし、真っ暗で、少女には何も見えませんでした。 「僕はいつか、そこに行ける気がするんだ」 おかしな事を言うな‥と少女は思いました。  突然少年は、目をキラキラさせながら言いました。「もしかしたら、君にも僕の宙を見せてあげられるかもしれない!」少年は、ぐるりと向きを変え、少女をじっと見つめました。そして、少女の姿をしっかり瞳に映し込み、目を閉じました。その瞬間、少女の目の前に、今まで見たこともないような景色が広がりました。
 吸い込まれそうなほど真っ暗な群青色の中に、光のないの円いかたまりが、いくつも、いくつも、浮かんでいました。 少女の横には、少年が、嬉しそうに笑って立っていました。「‥よかった」
 少年は一言そういうと、そっと、少女の手をとりました。少女は、ドキドキしながら手をつなぎ、少年の後を、静かについてゆきました。  「‥宇宙を散歩しているみたい‥」 少女は小さく呟きました。
 二人は何も言わず、吸い込まれそうなほど真っ暗な群青色の中を、どこまでも、どこまでも、歩いてゆきました。 しばらくして、突然少年が立ち止まりました。 「あの赤く光っているものは何だろう」 少女は、少年の見ている方をみました。しかし少女には、少年の言う、赤く光っているものが何処にあるのか分かりませんでした。「…君のお母さんは大丈夫だよ」 「‥えっ?」 少女は少年を見ました。 「あそこまで行こう!」少年は、少女の手を強くひっぱりました。その瞬間、少年の手が少女の手から、プツリと離れました。少女は、いつものベンチに座っていました。さっきまで一緒にいた少年は、何処にも見当りませんでした。少女はまるで魔法から解けたように立ち上がると、固く閉ざされたあの窓を見上げました。窓は、カーテンがきっちりと閉められたままでした。 その時、遠くで、お父さんの呼ぶ声がしました。少女は、お父さんをみて、びっくりしました。お父さんの横には、ニコニコ笑いながら少女に向かって手を振っている、お母さんの姿がありました。 「お母さん!」少女は、お母さんの方に駆けてゆきました。 桜の花びらが、一枚、ひらりと落ちました。  

『二十四夜の月』

大きなまあるい月かられた光が、採れたての花粉のように、はらはらと樹氷に付き、やがて蛍のように、ほうほうと灯り始めました。
 いつもなら、雪粒の宝石をくわえて遊んでいる白烏達も、今夜ばかりは、おとなしく何処かで夜が明けるのを待っているようです。
 いつしか月は真ん中に昇り、月の灯りだか雪の灯りだかよく分からなくなってきた頃、

遠くの方から、たくさんの光るつぶつぶが、こっちに向かってやって来るのが見えました。たくさんの光るつぶつぶは、雪の中を、きょろきょろ、きょろきょろと泳ぎ廻りました。ひととおり周りの畑を泳ぎ終わると、たくさんの光るつぶつぶは、順番にポコポコと雪の中から顔を出しました。現われたのは、何百という数のもぐらでした。
 もぐら達は、雪の中から顔を出すと、皆、月の方を見ました。 
長い間もぐら達は、きっとした目玉をうるうると光らせながら、黙って月を見つめていました。 
やがて、もぐら達の桃色の影が、長い長いに変わると、大きなまあるい月の方から、微かな歌声が聞こえてきました。 その歌が少しづつ大きくなるのと同時に、大きなまあるい月の中から、

たくさんの兎達が、きっちりと二列に並んで、踊りながら、もぐら達の方にゆっくりと下りてきました。
 兎達は、次々雪の上に舞い下りると、跳ねるようにそれぞれのもぐら達に近づいて、手をとり、一緒に踊り始めました。 
兎と踊っているもぐらの周りを、たくさんのもぐら達が、ぐるりと大きく取り囲みました。
 もぐら達の、長い長い、一年で一番長い夜が始まりました。 
大きなまあるい月は、金色の鏡に変わり、踊る兎ともぐらを、空いっぱいに映し出しました。 
雪は、真っ白の冷たい炎に変わり、長い長い夜を見守りました。 
その名をもぐら達は、風の音を聴き、土の鼓動を感じながら、踊って、踊って、踊り続けました。どのくらいの時間が通り過ぎたでしょう、やがて、群青色と薄紫の空の下に赤いひとつ星が輝き始めると、兎は踊るのを止めて、

一緒に踊っていたもぐらの手をとり、ゆっくりと月を見上げました。 
そして、ふわり、またふわりと、月に向かって歩き始めました。二列に並び、月に向かう兎ともぐらを、残されたもぐら達は、ただ黙って、じっと見つめていました。 上ってゆく兎ともぐらは、どんどん小さくなってゆきました。 
その時、一番最後の小さなもぐらが、くるりとこちらを振り返りました。 
もぐらの眼から、一粒涙がこぼれました。 
涙は、きらきら、きらきらと風に吹かれ、その日、二つ目の星になりました。
 いつしか、もぐら達の姿も消え、いつもの朝がやってきました。 
この季節になると、ひっそりとした山も、大地も、たった今できたばかりですというように、真っ白に、キラキラと、

おいしそうに湯気を立てています。 午前一時二十四夜の月から聞いた話です。 

『自転車とオルゴール』

自転車は、今日も夢を見ていました。
 四月のやわらかな風にさらさらと吹かれながら、力いっぱい両手をのばして待ち構えている草の子たちの間を、自転車は、するする滑るようにして走ってゆきます。空は、まるで海の底から見上げている時のようで, どうしてよいのかわからないくらい、高く高く続いています。
 自転車の上には、六歳くらいの男の子が乗っていました。自転車は、この男の子が大好きでした。男の子と一緒なら、どんなところへでも走ってゆける…そう思いながら、どこまでも、どこまでも、駆けてゆくのでした。
 自転車は、ふと目を開けました。空には星が輝いていました。夢なのか現実なのかまだよく分からない中、鼠色の電信柱にもたれながら、自転車はすこしほほ笑み、また目を閉じました。
 少しして、何かがドンとぶつかりました。自転車が目を開けると、そこには大きな黒い袋が一つあり、その中からクリスマスの曲が流れ始めました。自転車は不思議に思い、大きな黒い袋にそっと顔を近づけました。 「‥いってぇ‥」
 突然中から声がしました。自転車はびっくりして少しギシシッといいました。 「前見て歩いてよ」 「すみません‥」 自転車は咄嗟に謝りましたが、謝りながら、僕じゃないのに…と思いました。「聞き慣れねぇ声だなぁ‥君、誰?」また中から声がしました。自転車は、少しおどおどしながら小さな声で、 「…自転車です」 そう答えました。 「ほう‥自転車さんかい‥自転車っていうと、風の中をビュビューンと行っちまう、あれだろ?ほほぅ‥」 声は、黒い袋の中で暫らくの間、フムフムフムフム言っていました。今度は自転車が訊ねました。 「あなたは?」 「俺かい?俺はオルゴールさ」 大きな黒い袋が、プーっと少し膨らんだような気がしました。 「オルゴールっていっても、ネジを回す…あれと勘違いしてもらっちゃあ困るぜ。俺は、最新式オルゴールさ。俺の体に触れるだけで、クリスマスソングが流れるんだ。さっき君も聴いたろ?あれさぁ」 大きな黒い袋がよりいっそうプーっと膨らみました。 「俺の体はみてぇでよ、その中を、俺のうたに合わせて真っ白い雪が、フワフワーっとゆっくり舞い上がるのさ。そいつがキラキラキラキラ綺麗でよぅ‥。真っ白い雪が、いっぺんにみんなお星さまに変わっちまうさ。そしてその下を、にゃあやわんこが楽しそうに走る…。君に見せてやれねぇのが残念よ‥。クリスマスになると、もう注目の的。みんな俺に一目惚れよ…」
 オルゴールは延々と語り続けました。自転車は、あまりの長さに、頭の中が、むらさき色とだいだい色でぼわぁんとしていました。そしてその中で、男の子と初めて出逢った8年前のクリスマスの日のことを、思い出していました。「…でも、そいつも遠い昔のことさ‥。今じゃみんな、見向きもしねぇや…」 今まで楽しそうに話していたオルゴールの声が、急に寂しそうになり、大きな黒い袋は、小さくしゅんとみました。自転車は慌ててオルゴールに聞きました。 「そういえば、どうしてこんな所にいるのですか?」 「‥どうやら引っ越しするみてぇでよ。荷物が片付くまでここで待ってんだ」 小さく凋んだ黒い袋は、桃色のまあるい月に照らされて、ラメラメと光っていました。 「君こそ何やってんの‥?」 オルゴールは、自分ばかり沢山しゃべってしまったというように、急に自転車に聞き返しました。 「‥僕はある人を探しているんです」 自転車は、月を見上げました。 「二年前にその人とはぐれて以来、ずっと探してるんです」 「二年も…そいつぁー大変だぁ‥自転車なら、ビューンと走ってすぐに見つけられそうなものなのに」「ええ。昔は走りました。いろいろな人達を乗せながら、あちこち探し廻りました。しかし、見つける事が出来ないまま、僕は走れなくなりました。今じゃ、タイヤもベルもありません。‥でも、僕は待ちます。きっと、あの子が僕を見つけてくれる‥」 しばらくの間、二人は黙ったままでした。外灯の電球に、羽虫が一匹、カンとぶつかる音がしました。 「あと二ヵ月でクリスマスだねぇ‥」
 突然、オルゴールが言いました。 「自分の好きな星一つに、願い事をするといいよ。きっとクリスマスに、サンタさんが叶えてくれるはずさ」 オルゴールに言われ、自転車は空を見上げました。その瞬間、オレンジ色の星が、線香花火のように落ちました。「よぉし!俺ももう一度頑張ってみるかな」 オルゴールは、大きな声で言いました。「今年のクリスマスは、またうたを歌うよ。沢山歌って、みんなを驚かせてやるのさ。 …そうだ!君も今年のクリスマスは、俺の家に来るといいよ。その人も連れてさ。そうしたら、俺が二人の為に、とっておきのクリスマスソングを歌ってやるよ!」 自転車は、とても嬉しくなりました。なんだか今度こそ、本当に本当に、男の子に逢えるような気がしました。「なんか、少し眠くなってきたな‥」 「そうだね‥」 いつの間にか、東の空は薄紫に変わり、桃色の大きな月は、西の空に小さく白くなっていました。それからどのくらい経ってからでしょうか。大きな車の止まる音がしました。あまりの眠さに、夢から抜けた卵色のもやもやの中を、ぐるぐるとさまよっていました。 突然、自転車は、自分の体がフワリと宙に浮かんだ気がしました。突き刺さるような太陽の破片と、真っ青な空に高く浮かぶオルゴールの入った黒い袋が、自転車の瞳の中に飛び込んできました。次の瞬間、れるような鈍い痛みが、自転車の体全体に走りました。そのまま頭の中が、真っ暗になってゆきました。

 気が付くと、自転車は、いつもの草原を走っていました。吸い込まれそうな程真っ青な空の下、四月の風にさらさらと押されながら、自転車は男の子と一緒に、どこまでも、どこまでも走ってゆくのでした。

 もうすぐ、螢蔓の花が咲きます。 

『山を去った大男の話』

その日めずらしく雲の上のカンムリ山にも朝一番、玉虫色の風が吹きました。昨夜の雨もすっかり上がり、木も花も石もまるで生まれたばかりのようにつやつやの露をつけ、赤や緑に光らせています。 こんな日がくると大男は、朝ごはんも昼ごはんも食べないで、手をはたはたさせながら空を見てぐるぐる回ったり、

地面に耳をくっつけてはぁはぁ笑ったり、ゴォーとやってくる風に目も鼻の穴も口もせいいっぱい大きく開けて、バァとやったりしました。 
そんなことを一日くり返し、大男は、やがて腹の虫がぐぅと鳴ると立ち止まり、ポケットに残っていたシラカンバの皮を口に入れ、

にゃんにゃんにゃんと噛みながら、羊雲と一緒に、カンムリ山のてっぺんに向かって歩いてゆきました。  いつしか煉瓦色の日は沈み、真っ黒い夜がやってきました。しかし今夜は、青白い月の姿はどこにもありませんでした。 
それでも檜たちは、いつものように東の空に向かって、いっせいにきちっと敬礼をしていました。
 カンムリ山のてっぺんは、昔、まるで大きな隕石が突然落ちてきたかのようになっており、

真ん中の一番低い所には、とても美しい小さな沼ができていました。 
大男は、その沼の畔で、静かに星を見ていました。 
大男の隣には、銀色に光る小さな毛玉が一匹、カタカタと鳴る赤い実をおいしそうに食べながら座っていました。 大男は、ここから見る空が好きでした。 
沼から見上げた空は、まるで、逆さに伏せた透明の黒いガラスボールのようで、やがてその空にぽつぽつ穴が開くように、

ひとつ、ふたつと星が現われると、沼はいっぺんに銀の星の海に変わりました。 
大男はこの星の海が、ゆらゆら滲む星の涙に変わらないよう、風が吹きませんように‥風が吹きませんように‥と、域を堪えてそっと祈るのでした。その時、空にひとすじ、ほうずき色した箒星が流れました。その星は、長い長い尾を引きながら、みるみるうちに、大男の方に近づいてきました。 
大男はびっくりして、その場に立ち上がりました。
 その瞬間、ほうずき色に光った星が、大男の真上で大きくパン!と弾けました。同時に空は、一面、金緑色に染まり、そこから何百、何千という小さな星屑が、夢のようにパラパラパラパラと、音もなく沼に降りしきりました。 それは、もう、本当の銀河でした。
 大男は目をくるくるとまわしながら、暫らくその光景を見つめていました。 
大男は手のひらを、そっと沼の水面においてみました。大男の手から、金色に輝く波の輪がいくつもいくつも拡がりました。
 大男は嬉しくなり、体をふるふるさせながら、はぁはぁ笑いました。  そして、大切に大切に沼に入ると、今まで聴いた事も出した事もないような声を出しながら、銀河の海をどこまでも泳ぎ続けました。 どのくらいの時間が過ぎてからでしょうか。 大男は、突然銀河の海にポコッと顔を出しました。 
ひんやりとした紫色の空気の中、大男は仰向けにぷかぷか浮かびながら、そのまま岸に向かって進みました。 そして岸についた時、大男は、自分が二度と家には戻れない事に気がつきました。 
大男の足は、一本の大きな青い尾鰭に変わっていました。
 しんしん光る金色の中、青い尾鰭を虹色にゆらしながら、大男は、暫らくの間、周りの木々を見つめていました。 突然横で、「ジャジャッ」という声がしました。 
大男が振り向くと、そこには、赤い実をカタカタ鳴らしながら食べていた、あの銀色に光る小さな毛玉が、じっと大男を見ていました。 大男は、なんだか急に淋しくなりました。 
大男は、毛玉にぐるりと背をむけて、静かに泳ぎはじめました。
 そのとき、後ろで何かが淡く光ったような気がしました。
 大男は泳ぐのを止め、そっと後ろを振り返りました。 
するとそこには、小さなしっぽを桃色の尾鰭に変えた、銀色に光る小さな毛玉が、キリリとした顔つきで立っていました。 大男は、思わず顔をくしゃくしゃにしました。
 銀色に光る小さな毛玉は、「ジャッ」と一声鳴いて、元気よく大男の胸に飛び込みました。 
大男は、毛玉をやさしく抱きしめました。 
そして周りの木々に背を向け、とぼんっと小さく音をたてて、金色に輝く銀河の中に静かに消えてゆきました。 いつしか空から星が消え、沼には薄紅色の空が映りました。 カンムリ山の木々たちも、白い息を吐きながら、今日も朝日が来るのを待っています。